「日本に於けるインタビュー雑誌の確立」これがC○Tの可能性である。米二誌を挙げるまでもなく、日本にインタビュー雑誌は確立されていない。雑誌に限らず“インタビュー”というスタイルさえ、何も成立されていない。作品、作者に対する思い込み、認識、そして正しい批評性の稀薄な従来のインタビューは、まったく価値を生み出さなかった。そのインタビューの意図さえ、掴めないものが多かった。
このような状況の下、C○Tは正統的なインタビュー雑誌として、一つのスタイルを確立することが可能なのである。まずは売れることだ。売れて多くの読者に読まれなければ、インタビュー雑誌の確立も何もない。しかし現時点でのC○Tからは読者開拓の姿勢が余り感じ取れないのだ。
米二誌との契約を宣伝文句としているためか、どうも翻訳誌としての印象を受けてしまう。翻訳された記事よりも、読者が関心のある記事を増やすべきであり、C○Tスタッフによるオリジナルインタビューを充実させるべきではないだろうか。
僕はC○T創刊の予告を見たとき、ビートたけしのインタビューが読めるものと期待していた。僕の知る限りでは、彼の根底に迫るようなインタビューは存在していない。ショービジネス界に於けるたけしは、人気実力とも充分に兼ね備えた、まったく衰えを見せない怪物である。たけしは絶対、インタビューをしなければならない人物だ。C○Tはたけしを取り上げ、彼の顔の表紙で、日本中の書店に並べるべきなのである。
現在のC○Tは音楽と映画の記事が中心だが、ジャンルはより広げていくべきであろう。特に漫画家のインタビューなどは、日本では皆無に等しいので数多く取り上げるべきだ。また音楽の記事に関してはかなり慎重に扱わなければならない。
○ッキング・オンという音楽雑誌がある。幸か不幸かC○Tと同じ会社のため、その記事の内容には違いを見せることが必要だ。C○Tに掲載した音楽記事が○ッキング・オンに載ったとした場合、○ッキング・オンの読者にまったく違和感を与えないような記事ではいけないのだ。つまり恋愛をテーマとした大貫妙子の記事は優れていて、直接音楽と関連した記事の佐野元春は優れていないということである。音楽記事をC○Tで扱う場合、○ッキング・オンでは載らないような、C○Tのカラーを付けなくてはいけない。キース・リチャーズの場合、スキャンダル的内容の濃いインタビューであったが、ストーンズにとってスキャンダルも重要な要素のため、○ッキング・オンに掲載されたとしても違和感はなかったであろう。勿論、C○Tの宣伝効果としてはたいへん優れていたのだが。
C○Tは○ッキング・オンを背負ってはいけない。○ッキング・オン読者のC○Tではなく、C○T読者のC○Tでなければ、多種多様な雑誌、情報が溢れる現在、多数の読者を獲得することは困難である。○ッキング・オン社の三誌が、それぞれの役割を持つのでは無く、一誌ずつそれぞれが読者を開拓していかなければ三誌は何も意味を持たない。もし一社の主張として三誌が存在するだけならば、○ッキング・オン社は○ッキング・オン社の読者から多く金を取るだけの宝島になってしまう。そして読者は呆れて読むことを止めていき、○ッキング・オン社は倒産するのである。
C○Tは“インタビュー”というスタイルを正統的に扱った貴重な雑誌なのだ。米二誌との比較、○ッキング・オンとの比較、とりあえずC○TはC○Tオリジナルの色を早く持つべきである。「日本に於けるインタビュー雑誌の確立」、○ッキング・オン読者に甘えず、新しい多くの読者を開拓し、米二誌を越えるような、オリジナリティ溢れる記事で、斬新なスタイルを早く築くべきである。
ジョン・ランディス。おそらく僕が感じた現役の映画監督の中では、ピカ一のセンスだった。一作ずつ、その観客動員数を増やし続け、実際それは映画の内容とも比例して、実力のある監督であることも見せつけてくれた、のだが…。
一体、どうしたのだろう、現在は…?
こう書くと、いかにも彼のデビュー作から付き合っていたと思われるかも知れないが、そうではなく、あの『ブルース・ブラザース』、あの大ヒット作品が最初の出会いだった。『ブルース・ブラザース』について少し説明したいと思う。
映画が喜びになり始めた頃、丁度この映画を観たのだが、その喜びまで連れて行ってくれた今迄の映画達とは明らかに異質のものを感じた。取り敢えず何が素晴らしいかといえば、ブラック・コメディの結実であり、アメリカ映画の正しさであり、音楽映画の魅力など色々あるだが、その様々なそれぞれの魅力が、どれも度を過ぎているのだ。その割には全体的な印象は軽く、肩の力を抜きながら、力を込めるような、変な重厚さを持った作品だったのだ(説明になっていないだろうか)。
この後、彼は『狼男アメリカン』を製作する。僕にとっての本当のランディスの作品であり、本物の映画だと信じている。信じられない程の本物の作品なのだ。映画の中の映画。もう愛しまくった作品である。
『ブルース・ブラザース』の成功後、一転して、その成果を自分の為だけ生かした我がままな作品でもあるが、これがいいのだ。正しき怪物映画、現代の古典性、正しく映画の中の映画なのである。
決して大作ではなく小品の印象を確かに受けるが、それさえ作品自体のテーマに好印象を与えている。例えて言えば、ジョー・ダンテの場合、A級の資本を使ってB級作品を作ってしまう人だが、ランディスの場合、B級の資本を使ってA級の作品を作ってしまうのだ。まったく素晴らしい。
そんな訳で僕はランディス信奉者になり、ランディスは乗りに乗った若手映画監督だったのである。
元々ランディスは脚本の書ける人で、逆に脚本を自分で書かないと、その魅力が半減してしまうような、商業監督とは言え筋の通った
人であった。
で、本題はここからなのだが、もう駄目だ。もう絶望的である。悲壮感すら最近のランディス作品には漂っている。
問題は『トワイライト・ゾーン』なのだ。あのスピルバーグの、だ。実はこの作品、ランディス自身も製作に加わっていて、恐らく相当な意気込みで賭けていたのだと思われる。
あのスピルバーグ作品であるからには商業的成功は手中に納めたようなもの。その大仕事で一発実力を見せ付ければ、ただのコメディ監督からホラー作品でのその実力評価など、様々な目論見があったに違いない。
が、こけたのだ。ボロボロに…。
聞くところによると、ランディスはこの作品をモノクロで撮ろうとしたようだ。それはロッド・サーリングへの敬意の現れなのだ。また企画の段階ではコッポラやロマン・ポランスキーの名も挙がっていたようである。本当に正当的にこの作品を手掛けようとしたらしいのだ。が、相手はスピルバーグである。
オリジナル・ストーリーで勝負したのもランディスだけである。勿論、彼の書き下ろしの脚本である。
これだけ力を入れ頑張ったのだが、出来上がったものは、あのスピルバーグ映画であった。
僕はこの作品をスニーク・プレビューで見ていて、監督の癖も好みも知っているつもりだったのだが、本当に誰がどの作品か、確定することは出来なかった。その中にランディスは居なかったのだ。
この作品の撮影中、ビック・モローが事故で死んだ。それがランディスの作品だったのである。脚本は急遽、変更。遺族からは訴えられ、スピルバーグには、俺は知らないとそっぽを向かれた。よりによって、その死が宣伝効果となり、ランディスは名実共にまぬけな監督となってしまったのである。
この作品以降、彼は一作も脚本を書いていない。つまり挫折に囚われてしまったである。力を入れたところで空回りとなってしまい、すべてが壊れてしまったのだ。以降、撮りたいものを撮っていない。もしくは撮りたいものなど、無くなってしまったのかも知れない。最低の映画の最低の商業監督と成り果ててしまったのだ。
もう終わりだ。もう絶望的だ。ファンとしてはとにかく、好き勝手に脚本を書いて、好き勝手に監督をして貰いたいのである。