あらゆる世界の月とカビ 解説〜「夏を迎えに行った少年」 1992/08
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 初めに読者が感じられたことを代弁したい。「なんて下手糞な文章なんだ!」
 まったく怖いもの知らずの文章とでもいうのだろうか。特に会話・台詞の箇所は飛ばしてしまいたくなるような代物だった。説明台詞は当たり前、意味深長なやりとりがまったく無意味であったりする。作者には是非、台詞の書き方について考え直して貰いたい。
 当然怖いもの知らずの文章には台詞以外にも幾多の課題を抱えている。しかし小説全体の構成など、感心させられる部分も何箇所かあり今後に期待させられる。ただ、この文章が怖いもの知らずであることは何ら変わりない。
 いきなりこのような文章批判を書いたというのは、この作品の持つテーマと、それを伝える文章に大きな隔たりが感じられたからだ。文章は内容ではない。この小説が内包するテーマの大きさ、明確な主張、認識、もしくはただ単に奇跡的だったというのか、作品として小気味良くまとまっていて、誰かの焼き直しである筈の文章も作者のものとして機能し、その意図した世界が見事に形成されているのだ。つまり、下手糞な文章のことなどどうでも良く(どうでも良くないけど)、手放しではないにしても賞賛すべき作品である、ということなのだ。

 この作品は自伝小説であり、主人公まさみというのは○内美○自身のことである。兄の自殺という、かなり重いテーマを作者は小説にした。多感な時期に於けるこの事件は、計り知れないほどの影響を与えたはずである。決して、どの家庭でも起こり得るというような安易な事柄ではない。その余りにも特殊な状況を見つめ直したのだ。

 誤解を恐れずに書くならば、兄の自殺という事件は、作者にとって、すべての問題を転嫁出来る言い訳だったのではないだろうか。俺は他の奴とは違う、特別なんだ、と言い切ることができる強力な武器。ちょっと変わっていると他人に思われた時、思った時、そうだよ、と言えてしまう切り札。兄の死に対し、そのような言い訳としての要素を多少なりとも感じたことはなかっただろうか。
 小説には読者が存在し、その不特定多数の相手へ向けて思想や感情が訴えかけられる。この時、作者から発したものがどれだけ欠落せずに純粋に読者に届くかが、優れた作品の基準となる。作者の意思を読者が共有できるかどうかなのだ。

 この小説は優れた作品である。作者は執筆するにあたり、自己の個人的状況を客観的に認識しなければならなかったはずだ。不特定読者の視点、つまり己の視点に立って、自分だけが持つ、特殊な波紋に対し距離を置かなければならなかったはずだ。そして書き上げたこの作品からは、俺は特別なんだ、という要素は皆無となった。これは作者、自分自身への問い掛けの表れなのである。
 主人公まさみの気持ちを綴ったこの文章は、その重いテーマにも拘らず、とても淡々とした印象を与えている。親や周囲への怒りなどが記されてはいるが、ひどく静かな感触となっているのだ。それが兄の死というものの影響には違いないのだろうが、重要なのはその事実自体ではなく、日常と呼ばれる普通のものが、普通でなくなってしまった戸惑いの匂いなのだ。当たり前のことが当たり前でなくなってしまった時、どう対処すればいいのだろうか。その戸惑いの、手探りの状態が全体に漂い、世界や社会への違和感として、兄の死という特殊な事件を普遍的な事柄に変えることに成功している。

 完成された作品はその時点で作者の手を離れ、独り歩きを始める。兄の自殺という事実は作者にとっての特別な言い訳では既になく、読者側としての認識にもなった。言葉通りでのただの事実へと変化したのだ。事実は事実であり、それ以上でもそれ以下でもない。

 この作品は、作者自身の昇華、救済、解放であり、兄の死に対する解答、そして世界に対する、または自分自身に対する意思表明なのだ。きっと作者はこの作品によって何かが変わっていったのではないだろうか。例え文章が滅茶苦茶であっても、どうしても書かざる得なかった、という類いの小説なのである。
 この作品を受け止められたこと、また個人的に作者の友人として居合わせたことは、たいへんな驚きと喜びであった。感謝する。

 最後に付け加えておくと、○内という奴はまさみのような素直な人間では決してなく、酔えば脱いでしまったり、久し振りに会うと顔中があざだらけであったり、変な外人と付き合ってみたり、缶ビール片手にいつも運転するというような、やっぱり変わった奴なのだが、小説の中は小説の中ということで、まさみのイメージを壊さないようにこういう余談は黙っていることにする。また続編として、まさみの高校生活、中堅ヤンキー時代は書かないのだろうか。

 追伸。タイトルは「夏にむけた少年」ではなくて、『夏のおもかげ』だろう、これは。

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