あらゆる世界の月とカビ 天使 1991/02(2002/05加筆)
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○公園

 冬の終りが近づいてきたある夜のことです。
 恋愛に疲れ果てたマサルは、商店街から外れた小さな公園のベンチに座っていました。
 終電を告げる駅のアナウンスが遠くから聞こえてきます。道を隔てた向かいのアパートに、綾子はまだ戻ってきていません。マサルは彼女に会って、もう一度話がしたかったのです。どうしても最後に彼女を一目見たかったのです。彼女に会えるまで、この公園に何時間でも待ち続けるつもりでいたのです。
 力強く輝き続ける冬の星空を眺めていると、様々な出来事やあらゆる感情が思い出されてきます。綾子と別れたこと、原因が解らずに突然嫌われたこと、同僚の山岡に嘘をつかれていたこと。それらがさっきまで飲んでいたアルコールと混ざり合い、何度も頭の中で愚茶愚茶に渦巻いていくのです。もう二度と誰かを好きになることはないだろうと、マサルは胸の奥で呟きました。
 そんな時です。マサルは星空の中にそれを見つけました。ほのかに白く輝くものが夜空に浮かんでいるのです。それはこの公園に向かっているようでした。徐々にその姿が大きくはっきりと見えてきます。マサルは興味深く、それをじっと見つめました。
 天使でした。星空の中を天使が飛んでいるのです。大きな羽根と柔らかそうな衣をなびかせて、マサルの方へ向かって舞い降りてくるのです。きっと迎えに来たんだ、漠然とした気持ちでマサルはそう思いました。星空に浮かんだその天使が優しく微笑んでいるようにマサルには感じられました。

 背中に生えた白い大きな羽根、白くて薄いシンプルなドレス、天使はマサルの目の前に静かに佇んでいます。神秘的な美しさと可愛らしさとを合わせ持った、不思議な魅力が全身から溢れ出ています。美しいという言葉はきっと、この天使のためにあるでしょう。マサルはこれほどまでに美しい天使に迎えられたことを、とてもうれしく感じました。
 マサルはこの世に未練がないことを自分自身に確認して、天使を真っ直ぐに見つめ願いを伝えました。
「この世界にほどほど疲れ果ててしまいました。どこか遠くの世界へ連れて行って欲しいのです」
 天使は黙ったまま優しく頷くと、さらにマサルの方へ歩み寄り、顔を近付けそっと目を閉じました。
 キスをすれば別の世界に行けるのかな、そう思ったマサルは、目を閉じ顔を傾けました。天使のやわらかな甘い香りが近付いてきます。マサルはそっと口づけをしました。天使の唇はとても懐かしい感覚をマサルに呼び起こします。きっと心が抜け出しているんだ、そうマサルは思いました。
 すでに、辺り一面はマーマレードの空が広がっているはずです。マサルは静かに天使から顔を離し、そっと目を開けました。しかし、マサルの視界に入ったきたのは、さっきと何一つ変わらない公園の景色でした。何も変化は起こりません。まだ目を閉じたままの天使が目の前でずっと佇んでいます。マサルはもう一度、力強く天使に口づけをしました。今度は抱き締めて、さっきよりもしっかりと口づけをしました。

 何か変です。どうも変です。絶対、何か違います。天使はそのうちに堪え切れなくなったように笑い出して、マサルから顔を離しました。悪戯っぽい笑みを浮かべ、天使は呆気にとられているマサルを見つめています。まるで、マサルの反応を伺っているかのようです。そして、とても甘いきれいな声と勝ち誇ったようなしっかりとした口調で、楽しそうにマサルに囁くのです。
「これで私はもう天国には戻れないわ。ちゃんとあなた、責任とってね」
 一体、何のことなのでしょう? 一体、この天使は何なのでしょう? マサルには何が何だかさっぱり解りません。責任をとってと言われても、一体どうすればいいのでしょうか? マサルはとても困ってしまいました。そんなマサルの困った表情を、天使はとても楽しそうに見つめていました。

「ところであなたここで何してるの?」と天使がマサルに聞いた時、綾子のアパートの前に一台の車が止まりました。綾子かと思ったマサルはじっと見詰めていましたが、彼女ではありませんでした。マサルがふっと溜め息を漏らすと、

「これ?」と小指を立て、探るような上目使いの天使がとても嬉しそうに聞いてきました。
マサルは少しむっとして、そして恥ずかしくなって
「うるさいなあ」と言いました。
「ねぇねぇ、話聞かせてよ」
 ブランコに揺られながら天使はとても楽しそうに綾子の話を聞いていました。マサルが話を終えると、
「それって嫉妬っていう感情なんでしょ?」と興味深そうに聞いてきました。
「そうかもしれない」とマサルは笑いながら答えました。何だか天使に話をしたことで、マサルは気持ちがとても楽になっていたのです。
 天使はブランコから勢い良く立ち上がると、突然マサルに言いました。
「ねえ、お酒飲みに行こうよ!」

○居酒屋

「その衣装脱いでくんねえかな? 店が狭いから邪魔なんだよなあ」
「いいんだよ、ネエちゃん! 気にすんな! 今、流行ってんだよなあ! 可愛いぜ!」
 天使の羽根が邪魔だと言う店のオヤジの忠告も、奥で盛り上がっていた赤ら顔のご機嫌な中年サラリーマンの集団が救ってくれました。
 お酒を飲みたいという天使を一体どこへ連れて行っていいものかとマサルは悩みながら、とにかく繁華街へと向って歩きました。途中で現われたこの店のボロボロの赤提灯に足を止め、興味を示して見つめ続けた天使は、指差しながらマサルに伝えました。
「絶対にこの店がいい!」
 演歌が流れる余りにも不釣合いなお店でしたが、店の従業員や他のお客さん達は、天使の羽根が何かのバイトの帰りの、その時の衣装だと思っているようでした。刺身の魚が並ぶカウンターに腰掛けた天使は、黒板のメニューを一通り目を通した後、すぐに注文を始めました。
「オジサン、取りあえずお銚子! 熱燗で!」

「すべてジジイのわがままなの! 独裁政治なの、何でもアイツの声一つよ」
「…ジジイって?」
「あなた達の言うところの神様。天使と人間は兄弟のようなものなの。あなたたちは羽根を取られて、私達は感情を取られたわ、そんなものは必要がないって。なのにジジイは持ってるの。嫉妬ばかりしてるわ…」

「何に対して嫉妬するの、神様が…?」
「……んん、やっぱり人間じゃないかしら? 天国だけのフリーセックスだったのに、人間も変わらなくなってきたからエイズでしょ」
「ハア…」
「自分は感情を持ってるから、誰かと張り合いたいのよ、きっと。だけど、普通の天使は感情を持ってないから、どんなに意地悪をしても、どんなに誰かを好きになっても、社会には何の影響も及ぼさないの。とにかくいつでも平和なの」
「へえ〜」
「それに対して人間は、いつも競い合って、協力し合って、全部感情よね。その人間の感情の逞しさに、ジジイはきっと嫉妬しているんじゃないかしら。やっぱり一人だと寂しいのよ…」

「うん」
「でね、そんな独裁政治で、人間を苛めて楽しんでいるのにね、普通の天使達は気付かないの、みんな平和ぼけ…。人間の生活を見てこうはなりたくないよねえって、醜いよねえって、慈悲深さなんて勝手なこと言ってるんだけど…。人間に比べて私達は幸せ、天国は楽園。それで満足しちゃって、自分達のその見下ろすような視線? そのこと自体は全然疑わないのよ。実際、人間の感情の方が素晴らしいのにね。でも感情を求めている天使達も中にはいるわ。…地下組織があるの」
「天国に地下があるの?」
「色々あるわよ、天国だって。で、そこで人間変換の手続きをしてくれるのね」
「闇の世界だ、裏の世界ってヤツだ」

「そうね。それで…、半年程前に彼が…」
「…こっちへ来ちゃった!」
「…うん。で、彼ね、その地下組織もきっとジジイの策略だとか言って、ずっと疑ってたんだけど、最終的には自分の感情で生きてみたいって、突然こっちへ…。感情を求めて…」
「その彼を探しに?」
「一緒に探してくれるよね? あなた、私の唇奪ったんだから。あのキスでもう天国には戻れないんだからね! あとねえ、ここもあなたの奢り、いい? マサル君」
「そりゃいいけど、人間になるって、羽根を切ったりするの?」
「…実はあまり時間がないの。今、私天使の姿のままでしょ。ちゃんとした人間になる為には儀式が必要なの、今夜中に…。それも人間の協力が必要…。その為にも彼氏を探し出さないと…」
「それって彼氏じゃないとダメなの?」
「そんなことはないはずなんだけど…」
「うん、勿論。彼氏の協力に越したことはない」
「そう、そういうこと」
「とにかくオレで出来ることなら何でも協力するよ。で、彼氏の居場所とかは判ってるの? 容姿とか変わらないの?」
「私がその時間に彼のところへ行けば良いだけなんだけど…。行動は事前に調べてあるから、それは平気なの。だから逢うことは出来るんだけど…、向こうは私の存在が判らないの…」
「…ん?」
「人間として生活してるでしょ、彼。きっと私のことを初めて見る人にしか映らないと思うの…。だから、もしそこで、彼が儀式に協力してくれなかったら…。それ以前に話もしてくれなかったら…」

「因みにその儀式をしなかったら、どうなるの?」
「もう天国には戻れない…。コレ、あなたの所為よ。それで天使として過ごせるのは今夜だけ…」
「…もしかして命に関わることなのか?」
「…うん」
「命迄掛けて、彼氏の為に…」
「だから怖いの…」
「…で、それでうまく行って、人間になったとして、その彼とまた逢えるの?」
「それはね…、あの…、人間が良く言うでしょ“運命”って!」
「ああ! それが運命なのか!」
「そうしておきましょ」
「もしかして、天使って、他にもどんどん来てたりするの? 実は…」
「そうそう! 一杯いるわよ。誰にもバレていないようだけど!」
「ジム・モリソンは?」
「彼は英雄ね!」
「やっぱり! 神がいるってことは悪魔もいるのかな?」
「また気の良いオヤジなのよ、彼は。本当、同情しちゃうわ…」
「へえ〜、そうなんだ! …でさ、その儀式って一体、どんなことするの?」
「…後で教える、でもいいかな?」
「別に良いけど。大丈夫! うまく行くって! 絶対彼氏も協力してくれるさ!」
「うん、そうだよね!」

 二人が座るカウンターの前にはかなりの数の空のお銚子が転がり始めていました。
「怖いのよ! 本当は怖いの!」
「オヤジ、鶏の唐揚げ一つ!」
「なによアイツ、私にこんな怖い思いさせて!」
「大丈夫だよ! すべて上手く行く!」
「マサル、あなた代わりに殴らせて! これも責任のひとつなの!」マサルは往復びんたをいっぱいいっぱい貰いました。そこへ店のオヤジが鶏の唐揚げを運んできました。
「キャー! 何でこんな残酷なことするの!」
「うるさい! 鳥女! 美味いから食え!」
「人間は残酷過ぎる!」
「そうだよ。そんなことは最初から知ってるでしょ。大丈夫、彼氏来るよ、きっと」
「…あなたいてね」
「うん」

○噴水

 昼間はよく待ち合わせに使われる駅前の噴水広場に二人はやって来ました。すでに終電も終えてしまったこの時間では、バスターミナルに人影はなく、時折、派手な車が轟音を立てて寂しげにロータリーを走り抜けて行きました。
 少しここで酔いを冷ませた後、一体天使はどこへ向うのか、マサルはそのことが気になっていました。いつ彼氏と逢うのだろう? 自分から何か積極的に協力してあげることが出来ればいいのですが、今の時点では何をしていいのか、さっぱり判りません。とにかく彼女がマサルを必要としてくれているのなら、付き合ってあげようと、それだけを考えていました。

「怖いの…。あの人、きっとこっちの世界で色々な事情があるはずだわ、私が現れない方が…」
「バカ言ってんなよ、命賭けて出て来たんだろ、そんなわがままの奴に気を使うことないよ」
「…うん」
「わがままにはわがままでだよ。それに人間になったら、うまくいくにしろ、いかないにしろ、そいつと会うんだろ」
 天使は静かに頷きました。
「今更そんなに悩むなよ、もしかして悩むって感情を楽しんでるのか?」
「茶々入れないでよ、今一生懸命に落ち込んでたんだから」
「図星か…」
「でもね、本当に怖いのよ…」
「何で?」

「来てくれなかったりしたら、人間の感情ってやっぱり不安定よ」
「そりゃ言えるね」
「でも、あなたの事は好きよ」
「あらま…」
「これは多分ずっと変わらないわ」
「ありがとう」
 天使はふわっと身体を浮かすと、噴水の上を飛び回り始めました。
「何で噴水にこんなにいっぱいゴミが浮いてるの? こういう発想って、人間特有のものよね、芸術じゃ計り知れない感覚…。素敵だわ」
「…なるほど」
「人間になってもあなたには逢いたいな」静かにマサルの横に降りてきて、そっとキスをしてくれました。
「オレもだよ」
「私のこと好き?」
「うん。自分でも驚いているぐらい。ただの好きじゃなくて、恋人に言う時みたいな好きかもしれない。ああ…、恋人には言わねえな、そんなこと。何か…、おかしいよな? うん、おかしいんだよ…」
「あなたってもしかして、軽薄なの?」
「当たり前じゃん」
「彼氏、来てくれなかったら助けてね」
「勿論」
「でも儀式の内容を知ったら、助けてくれないのかな? 私彼氏いるし、あなたそういうのきっとつらいはずだわ、あなたも好きな人がいるんだもんね…。そうしたら別の人を探さなきゃ」悲しいマサルでした。

○デパート屋上

 何でこの歳になって、デパートの金網をよじ登らなければならないのかが、マサルには全く理解出来ませんでした。天使はふわっと身体を軽く浮かすと、あっという間に金網の向こうへ入ってしまいました。「早く! こっち、こっち」と天使は簡単に言いますが、金網を昇り切ることにやっと成功しても、早くも次の課題が待っています。さっきから金網の上に設置されたバラ線が背中に突き刺さり、マサルは難儀しているのです。
 バラ線に絡まりながら「これって見つかったりしたら、やっぱり捕まるのかな?」などと一応気には止めつつ「まあどうでも良いかあ!」とあっさり解決してしまう、そんな自分自身をマサルは久しぶりに感じていました。そう言えば、綾子と付き合って以来、オレはオレらしくなかったのかもな…。そんなことを何故か背中にバラ線を感じながら、考えていました。だけど、マサルはそんな滑稽な自分自身が本来の自分なのだとも感じていました。ふと眼を上げると、柵の向こうで、相変わらず天使が呼び掛けています。「マサル! 遅いよ!」そんな天使の声に「よし、がんばろう!」と素直に思うマサルなのでした。
 どうにか柵を無事に越えると、そのままこのビルの非常階段を昇って行きました。いつもならエレベータを使って、すぐに移動出来るはずなのですが、歩いて見ると、これが実に大変なことです。でも外壁に沿って進むその非常階段は、普段決して見ることの出来ない静まり返った夜の街の景色を眺めることが出来たので、マサルの気分は益々高揚していくのでした。
“で、何でこんなことしてるんだっけ?”≪このビルの屋上に彼氏が来るの!≫“そうだ! これだった…”

「本当にこんなところに来るの?」
「……」
「ごめん、来るよ、絶対に来るよ。ただ、場所がなあ…」
「あれ綺麗ね」と突然ネオンを指差した天使の横顔は、何か緊張する自分の気持ちを逸らしているかのように、マサルには感じられました。
「いいの、もう来ないわ。マサル、そのとき私を助けてくれる?」
「儀式のこと?」
マサルの眼をしっかりと見つめ、天使は深く頷きました。
「勿論、オレに出来ることなら…」
「良かった…」天使は自分自身に言い聞かせるように、そう小さく呟きました。
「何か変なんだよ、さっきまでオレ、あんなに落ち込んでたのに、君が来てから、まだ時間も経ってないのにさあ、それに人間じゃないし、そんな大きな羽根付けてるしさあ、可愛いし、綺麗だし、性格悪いし、生意気だし、泣き虫だし、好みだし、魅力的だし、尊敬しちゃうし、もうキスしちゃったし、ごめんな、ここからは聞かないことにしてくれ、こんなに素敵な子を捨てた奴を俺は許せないよ! そんな奴は来なければいい! それでオレと付き合えばいい! どう?」
「ありがとう…」
「ごめんごめん、きっと来るよ。絶対に来る。もう少し待ってみよう」
「いいの、もう来てるの」
「え?」ドアの開く音がします。
「あっ本当だ」と言って、マサルはそのドアの方へ向かいました。
「遅いよ、彼女がさっきからお待ちかねだぜ!」

「だっ、誰だ!」と言って警備員が怯えています。アルバイトのようです。懐中電灯の光が揺れています。
「おいおい、驚くのは無理ないけどさあ…」と言った時です。後ろから天使が飛んで来て、
「違うの!」と言うと同時に、マサルの両腕を掴み、更に上昇して、そのままフェンスを越えてしまいました。
「オイ!」と叫ぶ声を無視して、天使はそのままマサルをぶら下げて大空を飛び続けました。「わああぁぁー」様々なネオンや、色々な灯りが、すべて足下にあります。目の高さには星が見えます。
「わああぁぁ」天使が何か言っている気もしますが、風の音と何より、その景色にすべて集中してしまいました。「ぎゃあああぁぁー」。

○ホテル『エンジェル』

「凄えよなあ! 空飛んじまうんだもんなあ! おお、凄えよ! 良いなあ! 俺も羽根欲しいなあ!」
「さっき、聞こえなかった?」
「あっ、何て言ったの?」
「もういいわよ」
 天使は部屋に入ると、冷蔵庫の中を調べ、風呂場を覗き、ご希望の回転ベッドで遊んでいました。しかし、よりによってホテル『エンジェル』というのは笑えました。
 天使はシャワーを浴びています。マサルはベッドに座って、FMのスイッチをつけながら、変な一日だ、と思いました。バスルームから天使の声がします。
「マサル、電気消して」
 マサルが部屋の明りを消すと、バスルームのドアが静かに開き、天使がベッドまでふわぁっと飛んでやってきました。目の前にすっと立った天使の身体は本当に美しく、今までマサルが見てきた女性の身体がどれだけ不完全なものであったかが良く分りました。マサルは天使の腕を取り、ベッドへと導きました。
「いいんだね」
こっくりと天使は頷くと、
「優しくして」と呟きました。
 二人はそっと口づけをして抱き締め合いました。マサルが天使の背中に腕を回すと、背中の羽根が少し邪魔に感じられます。
「ちょっと待った」とマサルはそう言って、天使の背中を見ました。

 羽根自体は白くてとても美しいのですが、その背中との付け根の筋肉が隆起した部分が、今まで見たことがないからでしょうか、とても不気味に、気色悪く感じられます。
「どうしたの?」と天使に聞かれ、マサルは困ってしまいました。
天使はマサルのパンツの中のものを見て「あれ?」と言いました。
「ごめん、飲み過ぎちゃったみたいだ」と答えましたが、羽根の付け根が、頭から離れません。
 やはり天使は天使で、人間ではないのです。しかし、天使と結ばれないと彼女は死んでしまうのです。これでは済まされません。マサルはとても慌てました。そしてすぐに、慌ててはいけない、焦ってはいけないと自分に言い聞かすのでした。
「大丈夫よ、まだ時間はあるわ」と天使は言ってくれましたが、きっととても怖がっているはずです。何とかしなければ。

 ベッドを離れた天使は玄関近くのドアの辺りから呼び掛けます。
「このタイルの升目で、オセロができるわ」マサルはその天使の発想に惚れてしまいました。
 メモ用紙を細かく切って二人は終りのないオセロをしました。ギャグを言いながら、ビールを片手に、天使が笑い出す度に背中の羽根が動いて、風が起こり、紙の駒は飛んでしまいます。ゲラゲラ笑いながら楽しみました。そしていつの間にか二人はキスをしていました。
「大丈夫?」と言って、天使はマサルのものを口に含みました。しかし、なおさら背中の付け根が目には言ってしまい、マサルはその気になれません。

「駄目ねえ」と天使が諦め、後ろを向いた時、羽根がマサルのモノに当たりました。これがとても気持ち良かったのです。
「ちょっと待って」と言って、天使に羽根で良くしてもらいました。そして天使はその行為をとても恥ずかしがります。
 マサルは天使の羽根の付け根へ優しく指を伸ばしてみました。すると天使は、「ああぁ…」と声とも息ともつかない溜息を漏らしました。そういう事なのかとマサルは思い、指だけではなく、そっと舌も這わせてみました。
「恥ずかしいよ、マサル…」とても甘い味がします。天使はとても気持ち良さそうでした。あれだけ気持ちの悪かった羽根の付け根でしたが、天使が喜んでくれるとマサルにとってもなくてはならない貴重なものになりました。
 もうマサルはビンビンです。二人はベッドへ行き、回転ベッドのスイッチを押して愛し合いました。二人は結ばれ、共にお互いの心と身体を貪り合いました。マサルは天使を愛しています。天使もマサルを愛しています。天使は羽根を大きく広げゆっくりとはばたかせました。目をつぶった天使の顔にそっとキスをすると、下でゆっくりと回り続けるベッドが見えました。二人は空中で愛し合いました。素敵な夜でした。

「早く人間になりたいなあ」
「ベム・ベラ・ベロ」
「何それ…?」
「おまじない…」

天使は真剣な眼差しでマサルを見つめ、
「本当に今夜はありがとう」と言いました。
「俺の方こそ。でも本当に君はこのまま消えちゃうの? 人間にならないで、このままで…」
天使は表情を少し硬くして、真剣な眼差しでマサルを見つめ直しました。マサルもその視線に答えるようにじっと天使を見つめ続けました。
「絶対に君のことを忘れない」
天使はゆっくりと眼を閉じると、静かに首を横に振りました。
「記憶がなくなるの、あなたも。私と逢ったことの記憶…」
「嘘だろ、何で?」
「だって天使と喋ったなんて言ったら、変人扱いにされちゃうでしょ? だから、記憶が消えちゃうの」
「じゃあ、今夜のことは? 全部…?」
「そう。私を見た時からすべて…」
「そんな馬鹿な!」
「私は人間になってすべての記憶がなくなるわ、あなたは今夜の記憶がなくなるの、それで誰も天使の存在には…」
「絶対に忘れない、絶対に君のことは忘れない。忘れられる訳がない…!」
マサルはとても眠くなってきました。天使の顔がぼやけてきます。
“忘れない… わすれない… わすれ…な…い…”
マサルはとても深い深い眠りに落ちていきました。

○公園

 異常な寒さと背中の堅さの寝苦しさでマサルは目が覚めました。すでに当たりは明るく、マサルの頭はガンガンズキズキと痛みました。昨日、酔ったままこの公園のベンチで寝てしまったようです。公園の中央にある時計は7時35分を示していました。
 その時、向かいの通りを一台の車が止まりました。マサルも何度か乗ったことのある山岡の車です。マサルはさっと立ち上がると、すでにその車に向かって駆け出していました。畜生!
 車のドアが開き、中から綾子が降りて来ました。マサルはどうして良いのか全然判らないのですが、頭の中に血液が溜まっていき、顔が上気していくことだけは感じられます。
「テメエ等!」そう、叫びながら、とにかく走りました。山岡と綾子はマサルに気が付いて、かなり動揺している様子が、まるで映画の中のスローモーションのシーンのようにはっきりと伺えました。もうすぐです。とにかく綾子も山岡も許せません。
 公園を飛び出したマサルの横に一台のスクーターが急ブレーキを掛け、ふらつきながら山岡の車に激突しました。運転していた女の子は地面に投げ出され、頭を打ちました。一瞬の出来事に山岡も綾子も、そしてマサルも唖然としています。
 道に投げ出された女の子は動きません。マサルと山岡が駆け寄ると、女の子は体を少し捩じり苦しそうに唸り声を洩らしました。

○悟美

 出逢いというのは本当に不思議なもので、あの事故によって僕は悟美と知り合った。あの後、山岡の車で悟美を病院へ運び、幸い怪我は大したことはなかったのだが、頭を打ったという事で何度かの通院があり、その度に僕は症状を知らせてもらうことと、治療費を負担するということで彼女と逢うようになっていった。悟美のスクーターと車は山岡の保険ですべて直させた。すべてあいつが悪いのだ。やつらもうまく付き合っているようだ。僕には何の関係もない。

 今、僕の腕の中で悟美が寝息を立てている。これほどまでに優しくて可愛い女性を僕は今までの人生の中で見たことがない。感じたことがない。価値観や気持ちが通じ合うと言う事は本当に素晴らしい。僕は一生、彼女を守りきっと幸せにするつもりだ。
 彼女の寝顔は本当に純粋で天使のように美しい。そう、天使のように美しいのだけれど、最近僕の夢に登場するあの天使には適わない。僕は今、夢の中に出てくる天使に恋をしている。天使と僕は星の降り注ぐ夜空を飛んで散歩したり、お喋りをしたり、時には愛し合ってしまったりする。白いシンプルなドレスととても大きな羽根の天使は僕だけの天使だ。
 一度、怒られるかなあと思いながら、悟美に話したことがある。すると彼女は「子供みたい」と言って笑った。良いんだ、子供でも。さあ、今夜も悟美に気付かれないように、あの夢の中の天使に逢いに行こう…。

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